聖路加の地の歴史

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

目次

江戸時代 忠臣蔵の播州赤穂藩上屋敷

築地という地名は文字通り築かれた土地、埋立地を意味するもので、明石町界隈は江戸時代1657年(明暦3)の明暦の大火後、それまで海であったところを埋め立ててできた地域です。 1700年代の元禄期には、現在十字架の塔がある一号館や聖路加看護大学校舎がある土地には、忠臣蔵で有名な播州赤穂藩浅野内匠頭長矩の上屋敷がありました。江戸時代の古地図で当時の街並みを見てみると、大名や旗本の邸が建ち並び、由緒ある地域であったことが窺い知れます。

外国人居留地 ミッションスクール発祥の地

それにしても浅野家上屋敷の敷地面積8,890坪、建坪3,300坪という広大な数字には驚いてしまいます。どうしてこの地に聖路加看護大学ができたのでしょう。明石町は1869年(明治2)から1899年(明治32)まで安政条約によって外国人居留地が開設されたところです。日本の中の外国といった風情で、当時まだめずらしかったホテルなど赤レンガに木造ペンキ塗りの洋館が次々と建築されました。イギリス、オランダ、スイス、ドイツなどの領事館が置かれ、1875年(明治8)にはアメリカ公使館が麻布善福寺より居留地に移転してきました。それに伴い、布教のため聖公会をはじめ、外国の宣教師、教育者たちが次々にミッションスクールを開設しました。明石町界隈に点在する数々の記念碑が示すとおり、立教大学や明治学院大学、青山学院、女子学院などのルーツはここだったのです。

福沢諭吉の蘭学塾など 先進の学問の地

「慶応義塾発祥の地」の碑
解体新書を模した「蘭学の泉はここに」の碑
芥川龍之介生誕地の碑

1858年(安政5)には福澤諭吉はこの地に慶応義塾大学の前身となる蘭学塾を開き、明石町は異国情緒が漂うエリアで先進的な学問を学ぼうとする人々が集まる教育の街でもありました。明石町10番地先ロータリーの三角地に日本近代文化事始の地として「慶応義塾発祥の地」と「蘭学の泉はここに」の2つの碑が建てられています。前野良沢、杉田玄白らがオランダ語の医学書ターヘルアナトミアを苦労して翻訳し、「解体新書」を著したことは有名な話です。  また、幕末から明治にかけて外国からの商社も数多く進出し、ちなみに明治時代の地図を見てみると現在聖路加看護大学が建っている場所には貿易商社がありました。貿易商社が兜町に移転した後は芥川龍之介ゆかりの耕牧舎、その後1895年(明治28)から1899年(明治32)にかけて立教中学の校舎と寄宿舎が建てられました。銀座方向から撮った立教中学の「六角塔」の写真が残っていて、当時の風景を見ることができます。このほかにも明石町には史跡旧跡が数多く、例えば文豪「芥川龍之介生誕の地」の碑や指紋研究で有名なヘンリー・フォールズの住居跡碑、さらにガス街灯や電信創業之地などの跡碑があります。

近代文明発祥の地

これらのことを考慮すると築地明石町は江戸時代の終わりから明治時代にかけて近代文明発祥の地であったといっても過言ではありません。ドイツ系のキリスト教宣教医であったトイスラーは、これらの歴史的な背景があり、ハイカラな異国情緒漂う明石町に着目して1902年(明治35)聖路加病院を開設しました。さらに1920年(大正9)には、その附属学校である聖路加国際病院付属高等看護婦学校が設置されたのです。

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