築地居留地跡

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

鎖国の終焉後、明治政府により江戸に設けられた外国人居留地のことをいいます。 居留地とは、外国人の居留・交易区域として政府が特に定めた地域のことです。

目次

築地居留地の誕生

安政5年(1858)に江戸幕府が欧米5カ国と修好通商条約を結んだ際に、横浜・神戸、函館、長崎、新潟の五港の開港と江戸・大阪の開市を取り決めました。 築地居留地は明治元年11月19日に開設され、その地域は現在の中央区明石町一帯にあたります。築地が東京の居留地に選ばれたのは、東京ではもっとも「ヨーロッパ化」された地区であり、また町の周りが堀割りと大川によって囲まれていたのでもっとも安全な地と思われていたからであると言われています[1]

特徴

築地居留地には外国公使館や領事館(イギリス、オランダ、ポルトガル、アメリカ、ドイツ、スペイン、ペルー、スイス、チリの計9カ国)が建てられました。なので、海外からは宣教師・医師・教師などの知識人が居住し、教会や病院などが多く建てられ多くの宣教師達が医療活動や慈善活動に貢献しました。また、米国聖公会のウィリアムスが創設した立教学院を始めとするミッションスクールや学校(他には慶応義塾大学、明治学院大学、女子学院、二葉学園、ぎょうせい学園、関東学院大学、女子聖学院、工学院大学、聖路加看護大学など)も多く開設され、教育が行われていました。この結果、東京で唯一の居留地であった築地居留地を中心として、東京に異国の文化が次々と広まっていき、日本の近代化に大きな影響をあたえていったのです。

居留地の廃止とその後

築地居留地は明治32年に条約改正とともに、他の居留地と共に廃止されることになりました。 現在は立教大学・女学院などほとんどの学校は移転し、明治35年に米国聖公会のトイスラーが創立した聖路加国際病院・看護大学が残っています。

現在の築地居留地跡

引用文献

[1}^ビバ!江戸 築地居留地跡 http://www.viva-edo.com/kinenhi/tukiji2/tukijikyoryuuti.html

参考文献

  1. 中央区のまちづくり 外国人居留地 http://www.tokyochuo.net/meeting/town/edo/edo05_02.html
  2. 中央区郷土天文館 http://www1.ttcn.ne.jp/chikyuh-kotabi/
  3. 『築地明石町今昔』北川千秋著、1986年(聖路加国際病院礼拝堂委員会)
  4. 東京都中央区の歴史(中央区教育委員会)http://tokyochuo.blog.shinobi.jp/
  5. 「東京築地居留地百話」清水正雄、2007年(冬青社)
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