第2次世界大戦と聖路加看護大学

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

日中戦争と校名改称(興健女子専門学校)

1914年(昭和16)7月、聖路加女子専門学校は、日中戦争下の厳しい国内新体制に即応するため、校名を興健女子専門学校と改称しました。その前年には、病院および学校運営に関わる外国籍の人々に対して政府からの干渉が始まり、聖路加女子学園においても2名の外国人理事の辞任、続いてセントジョン主事と公衆衛生看護学担当のヌノ氏がその職を辞し、日本を去りました(1941年(昭和16)3月27日)。興健女子専門学校は、学校の支柱ともいうべき重要人物を失った中、日本人教師のみによる学校運営と、激動する社会への対応という大きな難題を抱えながら船出することになります。

この時期の状況について同窓会誌「会報」(1941年12月発刊)は次の様に記述しています。「・・・(前略)・・、昭和12年日支事変起こりてより我国内外の情勢次第に変化し、昭和15年に至り、我国民子女の教育は外国依存を排し、我国民自の手によって行わなければならぬとの興論が盛んに成った。・・・・(中略)・・・・。然れども教育の精神に於いては我国本来の精神を発揚すべきは勿論である。殊に我国女性の美徳は益々涵養せねばならぬ。また学術技能に関する教育法に於いても、我国状に最も適する道を執るべき秋は漸く到来した。依って昭和15年10月11日学校行政に直接関与する職責を負うセントジョン女史其他は自発的に退職し有能なる卒業生に道を譲った(原文まま)。」。また、学校の沿革については、発達道程を三期に分け、第一期を聖路加国際病院付属高等看護婦学校時代の胎児期、第二期を聖路加女子専門学校時代の外国依存の乳児期、そして第三期の興健女子専門学校は眞に我国状に適する教育を授くる学校として成長する時期だとその決意の程を述べています。興健女子専門学校の目的や校歌にも、“報国の精神に燃立ち”・“輝かし興亜の御稜威”・“大君の御旨かしこみ”など往時政府に阿る様な文言が見られます。また興健女子専門学校となる直前に学校報国団綱領や報国団旗も定められ、学校も教職員・学生も戦争状況に巻き込まれていきました。

興健女子専門学校は改称とともに学則の一部を改正し、修業年限四年の本科と修業年限二年の別科を付設しました。教授においては保健婦および中等教員免許取得の内容に加えて助産婦の教育内容も強化され、卒業生は看護婦・保健婦・中等学校教員免許(生理及び衛生)が無試験で付与される他、助産婦についても登録が可能となりました。しかし、四年間の教育も、大学等の修業年限短縮の省令によって六ヵ月短縮されるばかりか、日増しに悪化する戦況下で学生も救護の役割を与えられ、とても勉学に励む状況ではありませんでした。ただ、こうした状況においても、心の拠りどころであったチャペルでの朝礼拝は、出席できる学生と竹田牧師とともに慎ましく続けられたということです。

太平洋戦争

1934年(昭和18)入学の今村節子さん(旧姓 宮内、1947卒)は、この当時の状況を次のように述べています。

日中戦争から太平洋戦争へと戦火拡大のなか、健民健兵運動や戦意高揚の掛け声が日増しに大きくなり、日常生活の言葉にも例えば学校の運動種目のバレーは排球、テニスは庭球等、敵国語廃止が勧められていました。 その頃、私の学校ではいち早く「保健」の授業科目が加わり、教師として聖路加女子専門学校卒業の方々が数人赴任してこられました。当時女教師といえば、高等師範学校か女学校専攻科卒業の方々が普通でしたから、初めて聞く校名に驚いたものでした。 一方、専ら良妻賢母教育を旨としてきた女学校教育のなかにも、女性の自立が真剣に考え始められていました。 このような中で、私が選択し請求した聖路加女子専門学校の入学案内・願書の校名は「興健女子専門学校」となっておりました。入学後のバッジにも「興健」の文字が刻まれていました。 入学に先立つ入寮にあたって、殊の他有難く感じたのは案内書に「寝具不要」とあったことです。当然必要と思っていましたから不安でもありました。寮は1部屋2人、机・本棚・ベッド・クローゼットが合理的に整備されていました。 授業開始にあたっては、専門科目の多さに驚いたり、珍しさに胸躍らせたり、日々充実感、学べる希望がありました。唯、参考書が得られず、神田の古書店のことを聞いて、何回か通い、岩波文庫の「解剖生理」を手にした喜びは忘れられません。 各実習の充実・徹底さも驚きでした。特に「基礎看護実習」は見たこともなかった実習室、物品の整備、時には無駄では?と反発を覚えることもありましたが、あの訓練の意義は理解しよう、感じ取ろうとする者にこそ得られる言語表現を超えたものであり、単にテクニック(技術)ではなく、アート(芸術)への探究を示唆するものであったと思います。 疾病や看護に関する専門科目に先立って教えられた「個人衛生」は、日常の生活習慣に関する事項が大部分で、小学校入学時を想起させる内容でさえありましたが、例えば姿勢歩き方等について、人体の解剖・生理学的根拠に基づく「正しさ」の理解から、具体的行動表現を体得し、結果の美しさを評価・確認する。即ち好ましい行為を自覚し習慣化することが目標となっていました。 入学から約半年後、冷たい雨の中、明治神宮外苑に学徒出陣を見送る女子学生集団の列に加わったことも忘れられません。  以後、体育の時間は担架訓練・患者搬送法等に代わり、戦局激化の中、短期間ながら軍需工場にも行きましたが、本土空襲が始まり、病院へ被災者が搬送されるようになって、学生は臨床実習場と同一場所の看護を担うことになりました。 昼夜をわかたない空襲警報発令の中、着のみ着のまま過ごす日々が多くなりました。たまたま分娩室実習中、灯火管制下で初産の方の分娩介助をすることになりました。日頃技術の立派さ、美しさが評判の助産師の指導で、緊張と胸の高鳴りを覚えながら、無事終了できた時の安堵感を今も鮮明に思い出します。 1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲の夜以降は、チャペルからロビーへと急造ベットが並び被災者の看護に当たりました。

やがて終戦を迎え、9月24日までに学校は全施設を米軍に開放することになり、学生は自宅待機となりました。 約半年後、授業再開の通知を受けて帰校。東京都保健所の仮校舎から日本赤十字本社へと移転し、私共は仮進級の四年生となり、正規の授業が開始されることとなりました。戦後の混沌とした中で未来へ向かって活躍する自覚を新たにしたのでした。 1946年(昭和21)6月、GHQの指導の下、聖路加女子専門学校と日本赤十字救護看護婦養成部は東京看護教育模範看護学院となりました。

戦中から戦後へと国家の有り様は180度の転換をする中、私たちが受けた学校教育は一貫しておりました。戦中・戦後、非常時・平時どんな時代でもどんな事態になろうとも「看護」の必要がある限り、学びもそこにある。「看護」とはそのようなものであることを体得しました。それを貫いていたものは教育の不易と流行の堅持。不易とは学びの基礎基本となる不変なもの、流行とは臨機応変に変化順応させるものです。それは理論と実習という授業形態から取得した成果であろうかと思います。

正に激動のなかで過ごした四年間の学校生活でしたが、その後の私の職業生活においては言うまでも無く、人生のバックボーンとなって今日まできているといえます。

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