知と感性と愛のアート

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

目次

知と感性と愛のアート

知と感性と愛のアートとは、聖路加看護大学の建学の精神である。理事長日野原重明の造語。聖路加看護大学1階入り口の礎石に刻まれる。

礎石に刻まれた経緯

「聖路加看護大学のあゆみ」[1]に寄せられた日野原重明 聖路加看護学園理事長・理事長の言葉「創立九〇周年に際して」のなかに以下の一節がある。すなわち、

一九九六年(平成八)に聖路加国際病院からの資金提供より、新校舎として、現在の第一街区のチャペルのある建物の西側に地下一階、地上五階の建物が竣工しました。その礎石に私は「あなた方の愛が、深い知識において、鋭い感覚において、いよいよ増し加わり、それによってあなた方が何が重要であるかを判断でき、キリストの目に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光と誉れとを表すように至るように」という聖句を略して「知と感性と愛のアート」(平成八年九月)と刻みました。これは、新約聖書のピリピ人への手紙一章九節にあるパウロの手紙の中の文章から取り出した言葉で、この大学の建学の精神を示す言葉であります。

である。 本学1階入口の礎石の言葉は、これにもあるように日野原重明のものだ。

この言葉の背景[2]

日野原は1911年に生まれた。彼は京都大学医学部を卒業したのち、京大病院(京都大学医学部付属病院)など京都の病院を経て昭和十六年に聖路加国際病院の内科医となる。彼は医師になって以来循環器を専門とし、内科の臨床医として医師人生を送った。そのような彼がなぜ「看護」に着目し、本学の礎石にあのような一句を刻んだのだろうか。 そのヒントは、日野原が医学部を卒業してすぐ担当した最初の患者との出会いにあった。 その最初の患者は、十六歳の紡績会社の女工だった。彼女は貧しい 家庭の娘で、進行した結核性腹膜炎で危篤状態になり、入院後日野原が担当医となる。人事を尽くしたが入院2カ月で死亡するが、死の三十分前に彼女は日野原に「先生、苦しい。お母さんが見舞いにきてくれるときまではわたしは頑張れません。先生、わたしは間もなく死ぬのでしょう。私はその親心に報いられずこうなってしまい寂しいのですが、心配をかけたお母さんに心から感謝しているということを先生から伝えて下さい。」と伝えた。その言葉に対し日野原は「まるで振り捨てるように」、「そんなばかなことはない。あなたは大丈夫助かります。いま強心剤を打ってあげるから、頑張らなくちゃ駄目ですよ」と、一方的な言葉を残して病室を去った。それから二、三〇分後に、彼女が急変して死んだという通知を、医局で受け取った。  彼は六十数年の臨床医の生涯を回顧するたび、どうしてこの十六歳の少女に、「あなたに代わって、お母さんにあなたの感謝の心を伝えてあげましょう」といえなかったのか、「それを私は約束します」と、なぜそのときいえなかったのか、苦しい呼吸を楽にしてあげよう、注射をすれば間もなく楽になりますよ、という前に、「何かもっとお母さんか友だちに伝えたいことはありませんか」という言葉を、なぜ反射的に口にすることができなかったのか、悔む気持ちが湧くという。  後年、日野原は死の臨床に深く関心を持つよううになるが、その理由がこの出来事にあったと言っても過言ではないという。聖路加国際病院には緩和ケア部門があり、訪問看護ステーションも併設されることと無関係ではないだろう。  この体験で得られる学びとは、人間にとって最も大切なものは、一般に考えられるように生命の長さではなく、死の訪れる瞬間までいかに充実した時間を過ごせるかだ、ということである。医学がいかに進歩しようとも、人間が生命体である限り、救命や病状の完治を断念せざるを得ない状況に医師や看護師は必ず直面する。そのときに、患者に対しいかなる態度で臨むか、その姿勢が患者の生命の質を左右しかねないのだ。  患者の病状が悪化したとき、さまざまな外科的内科的アプローチをするだけでなく、主役は患者であるという根本に立ち返り、患者の思いに最大限沿うよう寄り添うことが最も肝要である。そのときに、病状と科学的見地から判断し患者にはいかような生活が可能であるかを瞬時に判断し、同時に患者の意を酌み取る鋭い感性が問われる。そして、その根本には、自分ではなく患者を主体とする、患者本位に物事を考える気持ち、すなわち愛が必在する。  本学の礎石に刻まれる言葉、「知と感性と愛のアート」には以上のように、病に苦しむ患者に対しいかに質の高い命を送っていただけるようサポートできるかの真髄=看護の真髄が語られているのだ。

日野原重明について

日野原重明は1911年に山口県に生まれ、37年京都帝国大学医学部卒業後、41年聖路加国際病院内科医となった。以来、内科医長、院長代理、院長を経て、現在は、聖路加国際病院理事長・同名誉院長、聖路加看護学園理事長、財団法人ライフ・プランニング・センター理事長などを務めている。98年東京都名誉都民、99年文化功労者、2005年文化勲章を授与され、早くから予防医学の重要性を指摘し、終末期医療の普及、医学・看護教育に尽力してきた。

特に看護においては、今までの法に縛られた古い看護を変えるべく、医療行為を医師のみに行わせることを主張する日本医師会の立場に対し、新米の医師よりも治療に精通した看護師もいるとして、医療行為を広く医療従事者に行わせることを認めるスタンスを取ってきた。

「数日に1度しか見られないような医者に代わって、看護師が病状の変化をすばやく察知し、それに見合った治療に切り替える判断ができれば、医療はより向上する。さらに、患者が語れない思いを患者の表情や目線などいろいろなことから感性をもって理解しなければならない。そのために、今後ナースはより知的、技術的に医者の診断に関与していくべきである。」と話している。この考えを基に、看護とは知と感性と愛のアートと言った。[3]

脚注・引用文献

[1]^(聖路加看護大学大学史編纂・資料室編(2010).聖路加看護大学のあゆみ.聖路加看護大学)
[3]^日野原重明著(1999).日野原重明著作選集=<上> 医のアート、看護のアート.中央法規出版 p194~
[2]^(変革を要する日本の間違った看護 日野原重明講演会 豊岡会 http://www.youtube.com/watch?v=dJUopWuKR9U)

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