浅野内匠頭屋敷跡記念碑

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

聖路加看護大学の学生です。 2011年度に科目『情報処理演習』(シラバス「人間と情報」)で共同してページを作ることになりました。


目次

浅野内匠頭屋敷跡記念碑

“都旧蹟浅野内匠頭長矩邸跡”という記念碑は昭和16年6月に東京都の史蹟に指定され建設されました。ここには浅野家上屋敷が存在していました。

屋敷が建った経緯

寛永(1624)以前は、現在の霞が関日比谷公園付近にありました。明歴大火(1657 )後、埋立新地の築地鉄砲州に移動しました。この土地は播磨赤穂藩2代目藩主の浅野長友が寛文11年(1671)3月5日、父の隠居により後を継ぎました。このとき、父の命令で53000石の所領のうち、3500石を義兄に、新田3000石を長恒にそれぞれ分与し、赤穂藩は50000石となりました。 寛文12年(1672)10月、国許赤穂に入り、藩政を執りました。長友は4年後に死去し、3代目藩主は浅野長矩が9歳で継ぎました。 浅野内匠頭屋敷が建ったのは参勤交代制が始まり江戸と赤穂を行き来するようになったため、滞在用の屋敷として建設されました。 浅野内匠頭長矩江戸城上屋敷、鉄砲屋敷とも呼ばれています。 (長矩切腹の後、幕府が召しあげられた時8970坪あったといわれています。)[1]

関連する歴史的事件

元禄14年(1701年)年賀勅使の供応役を命ぜられた播州赤穂の藩主・浅野内匠頭長矩は度重なる恥辱に耐えかねて、ついに殿中・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、自身は切腹、お家は断絶の悲劇を招きました。加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされました。その結果を不服とする大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人には、元禄年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入、その後の浪士たちは切腹しました。四十七士の墓は今も泉岳寺(港区高輪2-11-1)にあります。この物語は「忠臣蔵」として現在にも伝えられています。浅野家の江戸本邸跡は都指定史跡となって残っています。[2] [3]



この刃害事件には諸説ありますが、
一、 勅使饗応の指南役である吉良に挨拶に行ったときの贈呈品(賄賂)があまりにも少なかったことで吉良の勘気を買い、いじめの連続にあったこと。
二、 良質の塩の製法を教えなかったこと。
三、 吉良が長矩の阿久里婦人に横恋慕したこと。
四、 長矩には、「痞(つかえ)・癪(しゃく)」という持病があり、ストレスにより突然引きつりや痙攣を起こす癖があったこと。
五、 叔父も乱心したことがあり、長矩にもその遺伝子があったのではないかということ。
などが原因と考えられています。 [4]

赤穂浪士事件に関連する重要人物

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吉良義央
(1641~1702)
江戸幕府の高家に生まれました。元禄14年(1701)に、江戸城内で勅使」接待役の浅野長矩に切りつけられて負傷します。長矩は即日切腹となったが、義央は罰せられず、翌年の赤穂浪士の討ち入りで殺されました。
浅野長矩
(1667~1701)
江戸中期の播磨国赤穂藩主として活躍しました。元禄14年に勅使接待役となったが吉良義央を江戸城中で傷つけたため即日切腹し、切腹後に領地を没収されました。
大石良雄
播磨国赤穂藩士であり、長矩の部下であり、長矩は良雄の主君にあたります。長矩切腹による浅野家断絶後、元禄1702年12月15日に、同志とともに吉良邸に討ち入り、義央の首を取り主君の仇を討ちました。幕府の命令により、細川家に禁固され、翌年に再度の幕命により切腹しました。
赤穂義士
赤穂浪士、四十七士とも呼ばれます。吉良邸討ち入りの際、良雄と行動を共にし、吉良を討った旧赤穂藩士47名のことを指します。討ち取った翌年に、幕命により切腹しました。

[5]

引用または参考文献

  1. 北川千秋(1986),築地明石町今昔,聖路加国際病院礼拝堂委員会
  2. 清水正雄(2007),東京築地居留地百話,冬青社
  3. 財団法人中央義士会(2008),見る・歩く・発見する 忠臣蔵史蹟事典 東京都版,株式会社五月書房
  4. 中央区観光協会 HPメディア:http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/tsukiji/tsukiji_22.html 
  5. 松村明(1998~10),デジタル大辞泉 増補・新装版,小学館

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== グループメンバー ==

今井理佳子  奥瀬ゆき乃  平井奈海  米持美穂

脚注・引用文献

[1] ^財団法人中央義士会(2008),見る・歩く・発見する 忠臣蔵史蹟事典 東京都版,株式会社五月書房
[2] ^北川千秋(1986),築地明石町今昔,聖路加国際病院礼拝堂委員会
[3] ^中央区観光協会 HPメディア:http://www.chuo-kanko.or.jp/guide/spot/tsukiji/tsukiji_22.html 
[4] ^清水正雄(2007),東京築地居留地百話,冬青社
[5] ^松村明(1998~10),デジタル大辞泉 増補・新装版,小学館

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