歴代の学校長とその選出

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

学長選出のプロセス

私立学校法で学校法人の業務の決定機関は理事会であると定められています。この法律に基づき理事会の承認を経て、理事長により学長が任命されます。学長候補者の選任プロセスは、理事会のもとに理事長またはこれを代理する者、学校法人代表三名(理事会互選、内一名は評議員より選任)大学教員代表三名(教授会互選二名、研究科委員会互選一名)の七名による「学長推薦委員会」を設置し、学外者も対象に広い範囲から学長候補者の検討が行われます。理事会は、推薦された候補者から直接大学の課題、将来構想、所信などを聴き、キリスト教精神尊重を確認したうえで選任されます。

歴代校長・学長

聖路加国際病院付属高等看護婦学校から始まった本学は、聖路加女子専門学校、聖路加短期大学、聖路加看護大学へと創立以来約90年の年月を経て移行しましたが、歴代の学長(校長)を振り返ると、(ホワイト女史を除いて)校長には歴代の病院長が就任しました。トイスラー、久保徳太郎、橋本寛敏の各氏です。

初代の聖路加国際病院付属高等看護婦学校校長は病院内組織のため、ルドルフ・B・トイスラー院長が兼任し、実質的な責任者は、アリス・C・セントジョン女史でした。トイスラー校長はドイツ系のキリスト教宣教医でした。身長180センチほどの長身でピンホールのシャツを着た写真の通りハンサムな方でした。若い頃の性格は激しやすく短気な熱血漢、いったん目標を定めたら一途に邁進するタイプで、築地病院とよばれた時代から病院建築の募金活動をアメリカ各地で行い、集めた資金で聖路加を建築するなど現在の聖路加国際病院の基礎を築きました。  本学の講堂にその名が残されているアリス・C・セントジョン女史は、日本のナースの品性を高め、高等教育を施すためにトイスラーが米国から招聘した方で何事にも積極的で厳格すぎるとまでいわれた教育者でした。

第二代の久保徳太郎校長(荒木いよ婦長と結婚)はトイスラー逝去の後を継いで看護教育に尽力し、聖路加礼拝堂の竣工を行いました。

第三代校長は、1940年(昭和15)より橋本寛敏先生です。橋本先生の就任時代は、日本が日中戦争から太平洋戦争へと突入し、一号館の十字架は軍部の命令により搭上より取り下ろされ、聖路加国際病院の名称は大東亜中央病院、本学も興健女子専門学校と改称させられて国を挙げて戦争協力を強制させられた大変な時代でした。

終戦直後のGHQによる校舎の接収や日本赤十字社救護看護養成部との合同教育の時代を経て、1948年(昭和23)、サラ・G・ホワイト女史が第四代校長に就任、戦後の教育改革により1953年(昭和28)学校法人聖路加看護学園設立、続く1954年(昭和29)短期大学が認可され、専門学校を引き継ぐ形でホワイト女史が学長に就任しました。

ホワイト学長が定年退職した後、再び橋本先生が第五代学長に就任し、1964年(昭和39)4年制の看護大学が認可されました。

大学昇格後の学長は橋本寛敏先生から1974年(昭和49)に日野原重明先生が第六代学長に就任しました。日野原学長(現理事長)の強力なリーダーシップのもと、私学で初めての看護学大学院修士課程、さらに日本で初めての大学院博士課程を増設しました。

高齢化社会に向かって国による一県一看護大学構想のもと全国各地に看護系大学が設置され看護出身の学長が次々に誕生する中、本学でも医師ではない看護出身の学長をという強い要望が出されて1998年(平成10)常葉惠子先生が第七代学長に就任しました。新校舎建設、二号館取得、21世紀COE採択、看護実践開発研究センターの発足に尽力されましたが、在任中の2003年(平成15)ハワイにおいて水難事故に遭い急逝、学内は深い悲しみに包まれました。

現・井部俊子学長(第八代)は、聖路加国際病院看護部長を経験し、前日本看護系大学協議会会長、日本看護協会副会長でもあります。また、文部科学省、厚生労働省等の委員を歴任し、日本の看護界のリーダーとして活躍しています。

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