校章と校歌

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

目次

校章の制定

聖路加の校章は、1940年(昭和15)に制定されました。きっかけは、当時、学生が国家的行事に参加する際、どこの学校なのか、他校の人には分からず、怪訝な顔をされた体験から、校章の必要性を強く感じたとのことです。

 七宝焼きの白を基調とした美しい校章は、当時の校長であった橋本寛敏先生がデザインしました。  楕円の形は種の形をあらわし、聖書のルカによる福音書第8章11節にある「種は神のことばである」や、ヨハネによる福音書12章24節に書かれている「一粒の麦」を意味しています。それは、「一粒の麦が地に落ちて死ぬことにより豊かに実を結ぶようになる」というもので、良い種は何処にあっても芽を出し、根を生やし、花を咲かせ、結実するので、聖路加の学生も、何処に行ってもその場所で、看護の根を生やし、人々の健康のために働くようにという願いを表しています。  校章の中央には、青いランプが描かれた白抜きの十字架が配され、周りに青地に黄色い小さな撫子が描かれています。十字架は建学の精神であるキリストへの信仰、撫子は、当時入学が女子のみに限定されていたことから、日本女性を表す花として、学年の数と同じ四輪が描かれています。中央のランプは、マタイによる福音書5章14〜15節の「あなたがたは世の光である」という聖句と、ナイチンゲールがクリミヤ戦争において、夜も傷病者を一人ひとり見舞った時のランプと、彼女が灯した近代看護への灯火を表しています。現在でも校章はユニフォーム着用時、胸元中央に付けることになっており、聖路加看護大学の学生の証となっています。

校歌の制定

校章が制定された翌年の1941年(昭和16)に校歌が制定されました。作詞は大木惇夫氏、作曲は山田耕筰氏です。  作詞の大木惇夫氏は、詩人・翻訳者・作詞家であり、当時多くの校歌を作詞しています。本学校歌の作詞依頼の経緯は定かではありませんが、作詞にあたり、大木惇夫氏自身が夏のある夕の集いに来校し、学生と共に過ごされたということです。詞の中に当時の学生たちの様子が浮かびます。  作曲者である山田耕筰氏は、「赤とんぼ」や「からたちの花」などの作曲で知られています。山田氏は東京本郷で医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれ、幼少の一時期、築地居留地六番館に住んでいました。また音楽家になってからも築地小劇場で音楽を担当するなど、築地と関わりのある作曲家だったようです。そして当時、聖路加女子専門学校で音楽の非常勤講師であったた村井ます氏と、東京音楽学校(現東京芸術大学)で同窓であったことから、作曲が依頼されたものと思われます。  校歌が作られた当時の思い出を、「作詞・作曲共に、何て素晴らしい方達によって出来ているんだという驚きがあった」、「村井ます先生のもと、2度ほど練習した後、全校生徒がチャペルに集合して、直接山田先生のご指導を受けた。非常に熱心に歌い方その他について教えられた」、「有名な山田耕筰先生がチャペルで御指導くださって感激した」と同窓生は語っています。  しかし、戦時中に歌われたこの校歌は、戦後、日赤との合同教育時代には歌われることなく封印されてしまいます。校歌が再び日の目を見ることができたのは、聖路加短期大学が開設され、接収解除によって返還された、懐かしの築地校舎に全員が揃った時でした。この折、編詞をされた橋本寛敏先生は、制定時に歌われた軍事色の歌詞を削除され、二節と三節を入れ替えられました。

聖路加看護大学校歌の変遷 1941年(校歌制定時)

一、白楊の緑すがしく 學び舎は光みちたり いざ友よ集ひ励まん 人の世に愛をもたらす いと聖き努に起つと

二、不盡が嶺の清きこゝろに 新しき科學の技を いざ友よ享けて繼がなん 傷つける病める人等の 慰めとならん

三、輝かし興亜の御稜威 四方の民共に榮えよ いざ友よこゝろみがかん 大君の御旨かしこみ 美しく烈しく生きん

四、大空に神は在して 學び舎は愛にみちたり いざ友よ荊棘越えなん 日の本の乙女われらぞ 希望もて星を仰がん

聖路加看護大学校歌の変遷 1954年(第二次世界大戦後・短期大学時)

一、白楊の緑すがしく 学び舎は 光みちたり いざ友よ 集いはげまん 人の世に 愛をもたらす いと清き つとめに立つと

二、輝かし金の十字架みさとしは かしこにぞあり いざ友よ 心みがかん 公に つかえまつりて 美しく はげしく生きん

三、不二がねの清き心に 聖路加の ちえとわざとを いざ友よ うけてつがなん 傷つける 病める人らの なぐさめと 力とならん

四、大空に神はいまして 学び舎は 愛にみちたり いざ友よ いばらこえなん 日の本の 乙女われらぞ 望もて 星を仰がん

聖路加看護大学校歌の変遷 2001年(大学・男子学生入学時) 

一、白楊の緑すがしく 学び舎は 光みちたり いざ友よ 集いはげまん 人の世に 愛をもたらす いと清き つとめに立つと

二、輝かし金の十字架みさとしは かしこにぞあり いざ友よ 心みがかん 世の人に この身ささげて 美しく はげしく生きん

三、不二がねの清き心に 聖路加の ちえとわざとを いざ友よ うけてつがなん 傷つける 病める人らの なぐさめと 力とならん

四、天地を造りたまいし 神を讃め 愛に応えて いざ友よ 試練にも耐え看とる人に 優しき手を さしのべて 癒しを祈らん

その後、男子学生の入学が決まった2001年(平成13)に日野原重明先生により再度編詞がされました。戦中・戦後から今日まで本学に深く関わってこられた日野原先生は、この校歌についての思いを次のように述べておられます。  「日本の軍部が、満州国を中国から独立させるなどの満州事変が起こったのは1931年(昭和6)であり、その頃の日本は東南アジアへの日本進出をもくろみ、天皇を中心とした国粋思想が国内に拡がっていました。この天皇制を軍隊が取り込む風潮から、第二節の詞が『公につかえまつりて』となっていましたが、この詞を新たに『世の人にこの身ささげて』に変えました。しかし、その後に続く『美しくはげしく生きん』は、橋本寛敏先生が特に愛された言葉なので原文のまま残しました」。そして第四節は、2001年(平成13)、本学の学則変更により、男子学生の入学が始まり、男女共学となったことから、「女子学生も男子学生も共に癒しへのケアに携わると言う表現に変えました」。  また、日野原先生は、校歌のメロディーについても、最初の一小節が、「この道はいつか来た道」の最初の一小節と同じ“ヘ”長調で始まり、同じ和音が使われたことを、山田耕筰氏から、直接、伺ったことがあるそうです。  校歌の他にも、当時の同窓生の話しを総合すると1944年(昭和19)頃より、入学式・卒業式、聖路加国際病院との合同の式典では、石山脩平氏作詞・阿部正義氏作曲の「聖路加讃歌」が、そして卒業式には、立教女学院理事長であり、国語教師であった門間常次氏作詞の「卒業の歌」が歌われています(作曲者は不明)。  このような歴史を持つ校章そして校歌は今でも、そしてこれからも聖路加看護大学の使命そして理念を表す象徴として引き継がれていきます。

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