外国人教師による看護授業

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

目次

外国人教師招聘

ルドルフ・B・トイスラーは、レベルの高い看護教育機関を作るために、アリス・C・セントジョンを米国から招き、本学の前身である聖路加国際病院付属高等看護婦学校を開学しました(1920年)。そして、学科課程、教育方法とも米国やカナダの看護婦学校に倣い、外国から先生方を招いて教育にあたらせました。

外国人教師の来日と帰国

開学当初、校長のセントジョンと副校長のドーンの二人で始まった学校は、専門学校への移行期に公衆衛生看護法のヌノ(Nuno,Christine M.)を迎え、1930年代に入ると基礎看護を始め内科・外科・小児・産科等看護法及び助産、さらに看護婦学校養成管理法・同教授法を教授できる教員を揃えました。ピータース(Peters,Augusta F.)、サリバン(Sullivan,Margaret E.)、バーバー(Barbour, Ruth)、ホワイト(White,Sarah G.)らがその先生方です。この他、英語や体操等の一般教養科目についても外国人非常勤教師が担当していました。  1930年から1937年(昭5〜12)の7年間は、看護科目担当の専任外国人教師が5〜6名在職し、最も充実した時期でした。しかし、日中戦争下に入ると1人また1人と去り、1941年(昭和16)3月27日、セントジョンおよびヌノの2人の先生方の帰国を最後に外国人教師がいなくなりました。

当時の様子

聖路加女子専門学校を1939年(昭和14)に卒業し、その後、ホワイト女史の助手を3年間務めた高橋百合子さんは、当時の状況を以下の様に話しています。

 当時の外国人の先生方は、どなたも日本で看護教育をするという使命感に燃えていて、だから学生たちにも厳しい態度で接していました。先生と学生の関係は少人数であったこともあり親密で、特に実技を伴うような学習(たとえば実習など)は、つらいけどよくわかる授業でした。英語で行われる授業には通訳がいましたが、すべてが逐次で通訳されるわけではなく最初は大変でした。科目によっては卒業生が通訳してくれました。  学生と一番長く接していたのは、ピータース先生でした。先生は看護学原理を担当され、実習も含めると週の三分の一くらいは一緒でした。先生は病棟実習もよく巡回されていました。長身を利用して、スクリーンのところから見下ろすようにして学生が行っていることを黙ってご覧になり、それから学生に注意をしていました。その当時は、注意されないためにはどうしたらよいかばかり考えていましたが、先生は常に相手のことを不愉快にさせないようにするにはどうしたらよいか、患者、医師、その他のスタッフの方々との関係を考えながら接していたように思います。  校長であったミセス・セントジョンは、とても威厳があり雲の上のような存在でした。ミセス・セントジョンをはじめ先生方はとても厳しく、一度言われたことに対し何回も注意を受けると、「Go home!」といわれるよう状況でした。物品は決められた場所に置くこと、約束を守ること、さらには歩き方まで注意され、廊下に先生の姿が見えると学生は、一人、二人と逃げるように隠れていました。当時のことを、楽しかったという人はいないかもしれませんが、今になればそのような教育も必要であったかと思います。日本人は物事を曖昧にして伝える傾向がありますが、外国の先生方ははっきり伝えていました。  教務主任であったホワイト先生の傍で助手をしましたが、どんな時でも考えて行動すること、誰であっても(もちろん学生も)尊重して接することなどを行動で示して下さり、学生への教育的関わりの意味を教わりました。ホワイト先生は大きな体から声も高く、学生時代は近寄ることもできない方でしたが、愉快で、暖かく、優しい方でした。  学生時代には外国の先生方の徹底した厳しさを腹立たしく感じていましたが、社会情勢が変わる時代(就職一年目は防空演習ばかりでした)に、異国の地で看護教育を担われた熱意、使命感、人間愛は、聖路加の看護の貴重な一ページになっていると思います。

GHQによる教育

戦後は、日本赤十字社看護養成所と合同でGHQ看護職員六名による教育も行われ(1946〜1950年)、1948年(昭和23)にはホワイト女史が校長としてアメリカより着任されました。1954年(昭和29)に聖路加短期大学として認可を受けたときにも、引続いてホワイト女史が学長を務め、1957年(昭和32)の退職までその任を果たされました。  ルドルフ・B・トイスラー先生とアリス・セントジョン女史による看護教育への志は、多くの外国人教師とその教えを受けた先輩方によって、次の世代へと受け継がれてきているのではないでしょうか。

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