創設者

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

目次

創設の背景 ~キリスト教宣教の一環として~

聖路加看護大学の創設について語るには、今から150年前、米国聖公会による日本における宣教活動が開始されたこと、そしてこの宣教の過程において、聖路加国際病院が開設されたことを私たちは知る必要があります。  米国聖公会の日本の宣教は、1859年(安政6)にウィリアムズ司祭(Channing Moore Williams)が長崎に上陸した時に始まりました。ウィリアムズ司祭は長崎から大阪、東京へと宣教を進め、1874年(明治7)に築地に立教学校を創設したほか、医療伝道にも情熱を注ぎました。

聖路加国際病院の創設

ここで、『聖路加国際病院の100年』を繙くことにしましょう。聖路加国際病院の創設に関しては次のように述べられています。  「1893年、医療伝道に協力してくれていた医師が宮内庁へ異動した為、ウィリアムズ主教の後任であったマキム主教は後継者の宣教医を探していました。米国バージニア州にいたトイスラー(Rudolf Bolling Teusler)が耳にし、『自分は誰もやりたがらない仕事をやりたい』と東京行きを志願しました。マキム主教は、中国に宣教医師として赴任していたトイスラーの義兄であるウッドワードからトイスラーの意向を聞くと、すぐに宣教医師としての採用を決定しました。1900年、米国聖公会から派遣された第四番目の宣教医師としてトイスラーは24歳の若さで来日しました。1902年春、築地明石町に築地病院を聖路加病院と改称し診療を開始したのが、現在の聖路加国際病院の創設である。」

創設者トイスラー

また、ここではトイスラーの生い立ちについても「トイスラーは(1876—1934)、米国ジョージア州ロームで生まれました。父は、1881年に病死し、篤信で愛情深い母の厳しいしつけと、伯父ボーリング判事のキリスト教的訓練を受けて育ちました。バージニア州立医科大学を卒業し、21歳で州立医学専門学校の助教授となり、メリー・ウッドワードと結婚してリッチモンドに家庭を持っていました。トイスラーは、冒険心と好奇心に富み、非常にてきぱきとした性格でした。」と述べ、若き日のトイスラー先生がどのようであったかについて、今日の私たちの想像を助けてくれます。

看護の始まり

さて、聖路加国際病院における看護の始まりはどのようであったのでしょうか。聖路加病院の職員は初め、院長のトイスラー氏のほかは、看護婦の荒木いよ氏のみであったと述べられています。この聖路加国際病院の看護を創めたと言える荒木氏は立教女学院卒業後、神戸のカナダミッション経営の看護学校において看護学と医学を2年間学び、神戸にて臨床看護を修めたのち、東京において外国人患者の家庭看護婦として働いていた時にトイスラー医師と出会ったとのことです。荒木氏は有能であったことから、トイスラーに勧められ、1900年(明治33)から2年間、バージニア州リッチモンド市にあるオールド・ドミニアン病院付属看護婦学校への留学およびジョンズ・ホプキンズ病院やマウント・ウィルソン小児病院における研修を受けました。帰国後、荒木氏は初代の看護婦長となり、新館落成(1933年)の翌年、久保徳太郎氏(第2代院長・校長)と結婚するまで総婦長を務めたとのことです。

大学の創設

こうして聖路加国際病院とその看護が発展していく中、聖路加看護大学は、どのように作られたのでしょうか。トイスラーは、日本で宣教医として過ごすうち、日本の病院とその建築設備や看護婦の状態については欧米にはるかに劣っていることから、看護婦の技術の向上に伴って、品位教養と社会的な地位を高めることが日本社会には必要だと考えるようになったと「ルドルフ・B・トイスラー小伝」(中村徳吉著)に述べられています。  こうして1920年(大正9)、聖路加国際病院付属高等看護婦学校が明石町に設立されました。米国の当時の標準に応じた専門職者としての看護婦養成を目指し、米国から看護教師セントジョンを招聘し開校しました。入学資格を高等女学校卒業生としたことは、当時の女子看護教育においては類を見ないことであり、非常に高学歴でした。3年間の教育課程を有する学校としてスタートし、さらに1927年(昭和2)に、研究科を含めて4年間の教育課程をもつ女子専門学校として文部省の認可を得ました。女子の最高学府における看護教育を我が国で最初に行なったのです。

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