ポール・ラッシュ博士

出典: 聖路加看護大学史編纂資料室

日本への無償の愛

八ヶ岳山麓からの風景

ポール・ラッシュ(Paul Rusch)博士は1897年11月25日 米国インディアナ州フェアマウントに生まれました。1979年12月12日聖路加国際病院にて逝去しました。 「己のように隣人を愛しなさい」という聖書の言葉に従い、非凡な行動力で、戦後日本の民主的復興に多大な貢献を果たしました。 ラッシュ博士は関東大震災で崩壊した東京と横浜のYMCAを再建するため1925年(大正14年)に米国の国際YMCAから派遣され、初来日しました。翌年、ポールは教師として立教大学に赴任することとなりました。ただ、ポールはアメリカの大学で研究者として学んだわけではなく、当初の夢はホテル経営者になることであったことに象徴されるように、学者というより実学の教師でした。 聖路加国際病院創立者のルドルフ・Bトイスラー博士との親交は深く、トイスラー博士により大きな影響を受け、恩師と仰ぎました。 その縁は聖路加国際病院を新設するにあたり、トイスラー博士の依頼を受けて米国での募金活動に尽力したことに始まります。トイスラー博士を助け、病院建設の巨額の資金を民間から集め、それにより聖路加国際病院は開設し、当時の最高水準の病院となりました。 トイスラー博士が日ごろからラッシュ博士に語っていた言葉から、"DO YOUR BEST,AND IT MUST BE FIRST CLASS"「最善を尽くせ、そして一流であれ」を生涯のモットーにし、後の世の人々にも残しました。 ラッシュ博士はまた、日本聖徒アンデレ同胞会の設立など多くの社会事業に尽力しました。山梨県八ヶ岳山麓の清里に、後にキープ協会の中心施設となる青少年訓練キャンプ・清泉寮を建設しました。 また日本のアメリカンフットボールは、ラッシュ博士により組織化されました。 終戦と同時に博士はGHQ将校として東京に戻り、戦禍で疲弊した日本社会の再建活動に取り組みました。 博士はまた昭和22年、清里・清泉寮で、高冷地農業により日本の農業を改革する実験プロジェクトを立ち上げ日本の酪農発展のうえで大きな礎となりました。 博士は、その後立教大学や日本聖公会アメリカンフットボールの復興、聖路加国際病院の再生などにも力を注ぎました。また、「エリザベスサンダースホーム」の創立・運営を支援しました。 亡くなる直前、英国からカンタベリー大主教が、ラッシュ博士をお見舞いされ、それが博士の最後のそして最大の栄誉となりました。 キリスト教信仰に基づくボランティア精神とフロンティア精神を示した博士は、米の民間交流の手本を示し、亡くなるまで日本を愛し続けました。ラッシュ博士は1979年(昭和54年)、聖路加国際病院で82歳の生涯を閉じました。

参考文献、サイト

 

  1. 聖路加看護大学大学史編纂・資料委員会ブックレットワーキンググループ(2010). 聖路加看護大学のあゆみ(初版第1刷). 聖路加看護大学
  2. 山梨日日新聞社編(1986). 清里の父 ポール・ラッシュ伝(初版第1刷). ㈱ユニバース出版社
  3. 財団法人キープ協会(2003). 清里に使いして ポール・ラッシュが書き残した「奇跡の軌道」(初版第1刷). 財団法人キープ法人
  4. 船木上次(2003). ポール・ラッシュ100の言葉(初版第1刷). 清里100年プロジェクト
  5. ウィキペディア. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5 [2011-06-07]
  6. 財団法人キープ協会. http://www.keep.or.jp/ja/ [2011-06-07]
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